萩焼とは
萩焼の歴史
萩焼は今より約400年前(1600年)、豊臣秀吉の命(めい)により朝鮮出兵した際に連れ帰った陶工『李勺光(りしゃっこう)・李敬(りけい)』兄弟を江戸時代初め長州藩・藩祖、毛利輝元(もうりてるもと)が萩で御用窯を開かせた事に始まります。
萩焼の土
萩焼の原料は瀬戸内沿岸に接する山口県防府市大道地区一帯より出土する『大道土(だいどうつち)』を主に、『金峰土(みたけつち)』や萩沖合に浮かぶ離島・見島から出土する『見島土(みしまつち)』等を用いています。
萩焼には、松本萩焼・深川萩焼・山口萩焼の『三窯萩焼』と言われるものがあり、ここ山口萩焼では大道土を基本に山口で見出した数種類の良質な粘土も加え手作業よる粘土精製を行っております。
特徴
大道土(だいどうつち)は焼き締りにくい性質上、人の肌に優しくなじむような風合いが魅力のひとつです。
作品に出る薄紅色の斑点は『御本手(ごほんで)又は御本(ごほん)』とよび、別名『ホタル』や『ホシ』ともよばれ、窯の焚き方や窯内の位置で作品の素地から生まれる素地の変化が特徴です。
茶器の場合、お茶が素地の表面にかけた釉薬(ゆうやく)のひび模様『貫入(かんにゅう)』を通して浸み込み、使ううちに全体の色艶(いろつや)が変化していきます。
この様相を『萩の七化け(ななばけ)』と言います。
また萩焼は藩の御用窯であったため庶民が使う事が許されませんでした。
そのため『切り高台』ともよばれるものがあり、高台に切り込みを入れる事でわざと『キズモノ』とし、庶民が使う事を許されたというのが広く知られています。
他では十文字に切ったものもあり、器を重ねて運搬の際に荷縄がずれないようにするためのものだと言う説もあります。
『大和松緑窯』
大和作太郎
大和松緑窯は毛利藩御用窯の流れより萩焼四百年の歴史からなる「萩焼」の窯元です。
明治維新を契機に萩焼は民営化の道を辿り、当時萩藩御用窯(東光寺窯)の職長であった曾祖父・大和作太郎は吉田松陰に因み、雅名『松緑』とし吉田松陰生誕地傍に『大和松緑窯』を築窯しました。
明治二十三(一八九〇)年、明治維新を後押しした山口市の豪商、萬代家にその腕を見込まれ『山口焼』の職長として招致されます。
その後良質の陶土を隣村の吉敷郡宮野村(現・山口市宮野上)にて発見し、遂には明治二十五年『宮野焼・大和松緑窯』の開窯に至りました。
『大和春信松緑窯』敷地内には明治期に築窯された大和作太郎の登り窯跡を残し、近隣からは学校関連等、社会見学の一環としてお見えになる方も多いです。
また千トンを超える萩焼の原土(陶土)を置き、粘土づくりから焼成に至るまでの全工程が見学できる他、県内文化振興事業への関わりを多く持っています。